Archives : 2012年7月

osaka,kyoto★































The Soul of Japan


The Soul of Japan

最近何故ツイッターをしなくなったか、と聞かれます。

東日本大震災から約1年と3カ月、ずっと考え、悩んでいました。自分の母国について。


自分なりに、いろいろなデータを比較したり、法律を調べたり、、一体何が起こっているのか、何が本当なのか、という事を考えていました。

ここにはとても書ききれない事が沢山あります。

様々な環境や価値観がある中、どう捉えられるかも確信が持てぬまま、そして自分の発言や一言が一気に何千人の目に入る事を考えとても慎重になっていました。

ツイッタ—はまさにリアルコミュニケーションです。今という事。

だからこそ、怒りに任せた無責任な発言、感情的に思いついた言葉を軽率に投げたくなかった、それだけです。

私が言いたいのは原発廃止という意見のもっと手前な気がします。

表題の、「 The Soul of Japan」について。

何故、私が日本の武士道を、とお思いになるかも知れませんが、この、混沌とした時代に、自分が生まれた国がかつて持っていただろう美しい精神性を考えていました。

かつて日本の武士は、いかに生きるかという思想、プライドを持っていたのではないか?

「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」
つまり、主君に忠誠、親を大切に、自分には節度を保つこと、下の者には思いやりを持ち、敵には憐みをかけ、私利私欲に走らず、正義を重んじ、富より名誉を重んじる、という意味です。

国家の精神性は軍事と外交であり、物質性は経済です。近年の日本人は武士の精神を捨て、利のみに走る商人になってしまったのでしょうか?利が本質的な力だと錯覚を起こさせる社会、人間関係の中に真のものなどないと断言します。

現代におけるマニュアルや科学があっても、そこに魂が存在しなければ本来の存在理由、価値さえも失うのです。

何が言いたいかと言うと、
二次災害として起こった福島第一原発事故からの被害の増大はそこにあると考えます。
未然に防げる事が多数あったという意味ではまさに人災です。

福島に限らずとも多くの子供達が今の日本の犠牲になった、なりうると感じるからこそこの文章を書こうと決めました。


先日やっと原発被災者の生活支援法、「子ども・被災者支援法」が衆院本会議で全会一致で可決、成立しました。

とても喜ばしい事です、が、民主党は議員立法によって、震災からわずか半年の昨年8月26日「放射性汚染瓦礫処理法」を既に立ちあげています。
政府は土地の復興を急ぎ、人の復興を後回しにしました。
そして、原発被災者の生活支援法の内容は未だ発表されていませんが、今までの一連の動きを検証すれば、日本に住んでいる人々全員の健康の保障がされる事はほぼない事は想像するのに簡単です。

今年の3月12日の東大研究チームの都内の乳幼児の小児甲状腺発癌性率の発表、それに加えて、各地で子供達の尿からセシウムが検出されているという事実。

例として、チェルノブイリでの原発事故の際、周辺地域では、事故前の小児甲状腺がんの発症確立は100万人に一人というデータが、事故後には1万人に一人というデータが出ていました。

東大研究チームによれば、都内の乳幼児が甲状腺がんにかかる割合は10万人に2〜3人と発表されました。
このデータは対象年齢が違うので一概に比較は出来ませんが、(一般的に、小児というのは成人に満たない15歳までの事を指し、乳幼児とは6歳までの事を示し、年齢が低ければ低い程、程放射線物質への感受性は高まります。)しかし、単純に100万人に置き換えれば通常の20〜30倍と言う事になりますね。


この増加傾向を見ると、10年後はどうなってしまうのか心配です。
日本の教育や風潮は良くも悪くも平均的なものを最善としてきました。人と違う個性、意見は美徳にはなり得ず、結果、他人との価値基準で自分の価値をも決めざるを得ない。
他人との境界線を緩くする事で、一緒、普通という安心感を覚えます。一個人というよりも、学生は一集団として扱われる。悪く言えば没個性的と言えますが、良く言えば従順でまとまりが良い。
その国民性を利用したメディアは卑劣です。

首相官邸前原発再起動反対抗議のデモすらフェアに取り扱われてきませんでした。

この一年、メディアが大丈夫だ、ただちに健康に被害はない、と、無知な大人が不安の先延ばし行為によって責任のない言葉を発したがためにどれだけの人たちが不必要な有害物質を身体に取りこんでしまったのでしょうか。




「放射能物質を摂取しても直ちに健康に害はない」と発言した人や、「被災地の野菜を食べて応援しよう」とキャンペーンしていた人々は何の責任も取れません。無知か利己的な判断でしかありません。
そして、「瓦礫を受け入れる事は絆だ」など、愛国心とは自己犠牲心だとはき違えた幼稚な心理です。
とても大人が発する言葉とは思えませんでした。

自己犠牲は自らが行動する事で自己犠牲になる訳であり、他人が人に強要する事は恐喝に等しい。
私達は被災者ならば喜んで受け入れるに決まっています。
だけども、汚染されている可能性のある野菜を食べる事が「絆」ではない。

放射能を拒否する事と被災地を応援する気持ちは全く別の次元のものであり、同じステージで論議されるべき問題ではなく、モラルの低下に愕然とします。

ここには書ききればいほどの不信感があります。
が、私達が今出来る事は、自分で感じ、判断し、行動していく事。

自分達の健康は自分達で守っていかなければいけないし、判断のつかない子供達は大人が守っていかねばなりません。


今ある原発も、私達がまだ発言権を持たない幼少時代に作られたものです。年金制度も。
本来なら、次世代になすりつけるべき責任ではないのです。 だからこそ私達は次世代への責任として原発維持を阻止しなければいけないと感じています。
目先の財政で新しい未来への希望を潰してはいけないと思うのです。
国家は会社の経営とは違う、国は国民の為にあるのです。そして国民の心が国を作るのです。

私達は知る権利がある、選ぶ権利がある、そして自由を叫ぶ権利がある事を忘れないでください。

恐れは人を支配し真実から足を遠ざけさせるかもしれない。
だけど、逃げたり目を背けたりするのではなく、逆に、きちんと現状を受け入れ、想像力を働かせれば、未然に防げる事は多いと思うのです。

本当に、こんな時代に、と半分は思います。だけど、もう半分は、被災地で頑張っている人々、日本を変えようと頑張っている人々の姿は誇らしく、本当に勇気をもらいます。
今こそ私達は意識を一つに。











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